日本人にとって身近なようで遠くも感じられる制度に象徴天皇制(正確には皇室)があります。
天皇制とは、君主制の一種で世襲の一族が国の統治の中心にいる体制です。
天皇制は大雑把にいうと下のような理由のもとに存在しています。
- 昔から続いている文化的な伝統なので今後も存続させよう
- 国民が適度にまとまるため
- 儀礼的な公務に必要
今回はこちらをわかりやすく解説してまいります。
反対派の言い分も踏まえて中立的に解説しますのでぜひご覧ください。
天皇制の存在意義はまず伝統にあり
まず、天皇制が存在するもっとも簡単な理由が「昔から続いている文化的な伝統なので今後も存続させよう」です。つまり、伝統文化の尊重。
古今東西、諸外国にも君主制の類はあったのですが、その多くは長くても数百年くらいで滅んでいます。
この点、日本の天皇制は親政の時代もわずかにありましたが、ほとんどの天皇は実質的な権力者の裏で象徴として存続してきました。
親政とは天皇自らが行う政治を意味します。
また実質的な権力者とは、昔の武士政権や現代の議員政権のこと。
政権の人間が行う権力行為としては、法律をつくる、軍隊を動かす、大臣を辞めさせるなどが挙げられます。
こういった権限は天皇にはありません。ですから、日本の天皇は敵から大して狙われませんでした。
少し前に君主とは統治する王だと述べましたが、統治というと何か強い権力をふるう姿ばかりが想起されがちです。
しかし、日本の天皇は実質的な権力をふるわない象徴として君臨してきたことに特徴があります。
つまり、王制自体は珍しくないのですが、権力の裏で天皇制は長く象徴として存続してきたことに天皇制の支持者は誇りをもっているのです。
天皇制の支持者は「天皇は歴史の風雪に耐えて生き残り続けているなんてスゴイ、世界に誇れることだ。だから、今後も尊重し続けよう」と考えるのです。
右翼がいうには皇室は2600年以上も続いているとされます。
しかし、この説に沿うと医療や食料が乏しい古代において100年以上も生きた天皇が複数いるため、かなり怪しい説ではあります。
ただ、さすがに2600年は怪しいとしても、ある程度長く続いてきた制度であることはおそらく間違いありません。
ちなみに最先端の歴史学において天皇の実在がほぼ確かなのは6世紀初頭・第26代の継体天皇からといわれており(現在は126代)、それ以前の天皇の有無には論争があります。
国民が適度にまとまるために存在する
「伝統文化の尊重」については理由が感覚的すぎて腑に落ちない人も多いでしょう。
そこで次に知るべき天皇制が存在する理由は「国民が適度にまとまるため」です。
そもそも人間は学校でも会社でもそれなりにまとまっている方が望ましいといえます。
たとえば、あなたが会社の社長になったと想像してみてください。
そこでは従業員の意思はたがいにバラバラであるのと、ある程度統一されているのとどちらが望ましいですか。
普通に考えたら、意思はある程度統一されている方がいいです。会社は利益を得るための組織であるため、利益を得るには従業員間での協力とか士気が必要だからです。
そして会社だけでなく、日本国という全体においても国民はそれなりにまとまっていた方が望ましいです。その方が人々の気持ちは安定するから。
そのため、天皇には儀礼を通じて国民を穏やかにまとめることが期待されています。
国歌や元号はそれが身近な形で表れた産物だといえます。
適度なまとまりが存続にとって重要
ここで勘違いしないでいただきたいのは、人間は適度にまとまるべきであって強くまとまらない方がいいということです。
たとえば、北朝鮮という国を見てください。国のトップは横暴の限りを尽くしていますよね。
そのうえ、自国民を独裁者にとって都合がいいように染め上げようとしています。国家行事のときに見せる軍隊の行進は足並みがそろいすぎていて逆に気味が悪いくらいです。
北朝鮮の国民はかなりの不満をもっているでしょうが、洗脳されている人も多いですし、不満を下手に態度に出すと厳しく処罰されます。
しかしというか当然というべきか、こんな強権的な体制は何百年も続くわけがないでしょう。
いつかは強烈な反乱分子が出てくるはずです。
つまり、公権力が国民をまとめる際にはあまりに強権的にやるとよくないわけです。
そのため日本の天皇には日本国民にとって精神的で文化的な支柱として穏やかにまとめてもらうことが今後も期待されます。
儀礼的な公務に必要なため存在する
さらに天皇制が必要とされる根拠として特殊な公務の存在があります。
天皇制に反対する人としても、国の公務はだれかが担わなければならないことはさすがに反対しないでしょう。
しかし、公務は警察や事務処理など一般の国民が担ってよいものもあれば、権威のある人が担った方がいい公務もあります。
たとえば、特殊な公務の一つとして外国の王室・要人との交流があります。こういう公務は幼い頃から磨いてきた教養や品性、権威などがあった方が有利です。
議員や閣僚などは選挙のたびに変わる不安定な立場ですが、皇族の地位と知名度は安定しているので一部の公務は皇族が担った方がいいというわけです。
さらにいうと、総理大臣や国会議員は一般人でも就けるだけの可能性が開かれていますが、皇族は血統という先天的な壁があります。
これは不平等ではありますが、不平等な分だけ「ぽっと出の怪しい人」を阻むことができます。
怪しい人が皇族になってしまうと皇室の権威は下がってしまいますから、不平等だとしても排他的な体系をとるわけです。
皇族の公務はだれにでも務まるものではないのです。
公務の分業体系
ここで公務に就く人たちの特徴を軽くまとめておきます。
天皇および皇族の特徴
- 世襲制であるため地位と知名度が安定している
- 皇族に対しては幼い頃から特別な公務に必要な自覚や品格を教え込みやすい
- 権力をふるわないため、国民から反感をもたれにくい
- 実務的な知識よりも、まとめ役・外交役としてのコミュニケーション能力や品格、知名度、好感度がもとめられやすい
国会議員の特徴
- 議員、とくに国会の与党勢力は権力をふるう以上、国民から反感をもたれやすい
- 議員は国の法律や予算を決めたり変えたりする以上、それなりの実務経験がある人が好ましい
- 議員は数年ごとの選挙で選ばれる(時代の変化に対応したり、多様な層の意見を表すことができる)
議員以外の公職者の特徴
- 警察、学校、役所などにおいて活躍する身近な存在
- 一般国民から筆記試験と面接を通じて大量に選ばれる存在
- 警察や税徴収は国民から反感をもたれやすい
天皇制の存在に反対する人達の言い分
次に天皇制に反対する論を見ていきましょう。
天皇制に反対する人というのは基本的に平等主義者や理屈っぽい人です。
この場合の平等とは「人間は生まれながらにして平等」という近代にできあがった精神です。
具体的には以下のような根拠にもとづいて天皇制に反対します。
- 政府が皇族を生まれながらにして特別扱いすることは近代の平等精神に逆行する
- 王族は強い権力をもって民衆を苦しめた時代もあった
- 王制はフィクションだ
この3つの理由を見ると、納得できる部分もあるかと思います。
実際、日本政府は現在でも皇族をよくも悪くも生まれながらに特別扱いしています。皇族は天皇制の反対派にとって不平等の象徴に映るのです。
また近世の西欧では強権をふるった君主もいました。こういう強権的な王は「絶対君主」と呼ばれます。
さらに宗教や王制は理屈っぽく説明するのが難しいです。そこでは部分的にはフィクションが込められているからです。
実際、君主制に対しては「過去の皇族の中には浮気した人もいるはず(=血はつながっていない)」などと簡単に批判することができます。
まあ、それらは否定の証明もできませんが。
反論に対する反論は人間の限界にもとづく
ここで天皇制反対論に対する反対論が頭をよぎります。
それは以下のような論です。
- 皇族は特別扱いされているからといって本人は幸せとは限らない
- 戦前の天皇は自らは権力をふるわず周りの人間が天皇の権威を利用した
- みんなが平等になると、かえってまとまりにくいのではないか
- もし、みんなを平等にするとすれば政府が強権をふるうことが必要だが、それは天皇がいる程度の不平等より、はるかに不平等になってしまう
- 人間は何もかも理屈っぽく説明したり実現できるわけがない
まず1についていうと、現代の皇族は衣食住から恋愛までほとんどが不自由です。
それは一生食うに困らないほど高水準で安定しているともいえますが、その分マスコミや大衆からは常に見られています。
表現の自由や職業選択の自由、恋愛・婚姻の自由、選挙権・被選挙権だってないに等しいです。
この点、一般人で親の財産を受け継いだ金持ちはニートとして生きていけますし周りから文句もいわれないでしょうが、皇族には公務があります。
皇族に対する特別扱いは本人にとって幸せなのか不幸なのか何とも断定しにくいところです。
天皇自らが権力をふるったのではない
次に2の「戦前の天皇は自らは権力をふるわず周りの人間が権威を利用した」です。
戦前の日本の法では天皇の権力はかなり強いものと規定されていました。
ただ、あくまでこれは規定であって天皇自らは権力をふるいませんでした。
しかし、政府や軍部は天皇の権威を利用していましたし、マスコミは戦争(対外強硬論)を煽っていました。
そのため国民の間では「お国のために戦わなければならない」という風潮がありました。
つまり、天皇制の存在が戦争に向かって国民をまとめてしまったのです。
人間は適度にまとまるべきだとは思いますが、強くまとまりすぎるとそれはそれで問題があります。
ただ、太平洋戦争においては特定のだれかだけが悪かったというのではなく国全体に問題があったのだと思います。
みんなが平等ではまとまらない
次に3の「みんなが平等になると、かえってまとまりにくいのではないか」についてです。
たとえば、もしあなたが所属する会社や学校において役職が一切なくなって従業員・学生のだれもが平等になると統率が取れなくなると思いませんか。
組織では少し特別扱いされる人がいた方がまとまりやすいはずなのです。
実際、平等を強く主張する日本共産党という組織の中でさえも役職や待遇には明確な差がついています。
平等を推進するはずの政党が身をもって社会の不平等を示しているというのは皮肉なことです。
強引な平等は危うい
次に4の「もし、みんなを平等にするとすれば政府が強権をふるうことが必要だが、それは天皇がいる程度の不平等より、はるかに不平等になってしまう」についてです。
これは今まで強引に平等を実現しようとした国がいくつもあるのですが、そのどれもが独裁状態に陥ったという史実にもとづく反論です。
興味がある方は少し昔のカンボジアやソ連といった社会主義国について探ってみるとよいでしょう。
正直言ってかなりメチャクチャな政治運営です。これなら現代の日本の方がよっぽど平等性や幸福度は高いです。
平等をあまりに強く実現させようとすると政府・公権力の力が強くなりすぎてしまうので、それが大きな不平等を招いてしまうのです。
人間は「平等」という美しい理念を完璧に実現できるほど優れた生き物ではないといえます。
人間は科学的な存在ではない
最後に5の「人間は何もかも理屈っぽく説明したり実現できるわけがない」についてです。
この世には未だに解明されていないことが山ほどあります。
「人間はなぜ存在するのか」みたいな身近で哲学的な分野はもちろん、数学や宇宙のような理系的な分野でも未解明のことは山ほどあります。
学問の究極目標はあらゆる事象の解明にありますが、どうしても解明不能なことは多いです。
そうなると「人間はすべてを解明できるほど賢くないから理屈では説明しきれない産物を信じてもいい」と考えたりします。その典型が宗教です。
実際、欧米の一流科学者の中には今も昔も神の存在を信じている方が少なくありません。
科学を知り尽くしている人だからこそ同時に人間と科学の限界もわきまえ、その果てには宗教に行きつくのかもしれません。
人間はちょっと非科学的なものをみんなと共有しながら信じるくらいでないと生きてられないともいえます。
この点、日本人は一神教を好みませんが、多くの国民が営んでいる墓参りや初詣はどう見ても宗教的な行為です。
科学的にはナンセンスに見えるのに日本人はなぜ墓参りや初詣に向かうのかといえば「月日の節目ではなんとなく祈った方がいいかな」くらいのゆるい考えが多いでしょう。
一般人だと真剣に祈るのは月日の節目くらいでしょうが、天皇は日々、国民のために祈っているとされます。
それと国民との幸せの間に直接的な因果関係はないとしても、なんとなく心持ちが強くなったり、国民は天皇を介してまとまっていると思いませんか。
理屈っぽく考えると天皇の存在は不平等だったり非科学的に見えますが、そういった非科学的な要素をすべて解消してうまくいくほど人間はできた存在ではないのです。
ゆるさが平和につながる
まとめ
天皇制が存在・存続する理由がなんとなく見えたでしょうか。
ちなみに中道(ちょっと中道右派?)である私個人の意見は「象徴としての天皇制で無駄遣いしない程度に存続するなら支持する」というものです。
天皇制は、最近では生前退位も認められたように時代によって多少の変化を見せますから、今後もどうなっていくか注目しましょう。
こちらもCHECK
-
右翼と左翼の違いをわかりやすく説明【街宣車で判断してはいけません】
続きを見る