このページでは自然科学と人文科学と社会科学の違い・種類について『高校生からわかる社会科学の基礎知識』の著者である私がわかりやすく解説します。
Amazon:高校生からわかる社会科学の基礎知識
こういった学問はどれも欧米が発祥の地です。
今回の記事を参考にすると「科学とは何か」が大まかにわかり、さらに大学の学部選びにも役立つはずです。
わかりやすく解説しますので見ていきましょう。
※科学とは物事を理屈っぽく研究する営みであり、そういった営みによって蓄積された知識のこと。
※この記事の内容は大まかな分類や意味です。細部にはツッコミどころや批判もありますが(というか完璧な学問分類は存在しないし、科学の違いを厳密に区分けすべきかも疑問)、最初は大枠をつかみましょう。
自然科学と人文科学と社会科学の違い・種類
まずは自然科学の分野と意味について大まかに確認します。
科学という大枠の中に、
- 自然科学≒理系物質や運動など自然に発生したモノ(人間がつくり出せないモノ)を研究する
- 形式科学≒理系人間がつくった普遍的な記号や論理に沿って理論を展開して研究する
- 社会科学≒文系法、経済、国家など人間と人間の関係から生み出されたモノを研究する
- 人文科学≒文系言語、思想、芸術感覚など人間の内面がつくり出したモノを研究する
という分類があるのです。
社会科学と社会学を混同している人がいますが、一般に社会学は社会科学の中の一分野として位置づけられています。
各学問分野と人間の関係
- 自然科学の研究対象(たとえば、物体運動、岩石、気象)世界の人間がゼロでも、世界の人間が1人でも、世界の人間が複数でも研究対象は発生し続ける(学問自体は人間1名~の営みだが)
- 形式科学の研究対象(たとえば、数学、論理学、情報学)人間が人間向けにつくった理論体系なので、世界に人間が1人でも発生する
- 人文科学の研究対象(たとえば、哲学、小説、宗教、芸術)世界に人間が1人でも発生する(人文系の産物はつくるのも鑑賞するのも批評するのも人間である以上、人間がゼロでは発生しない)
- 社会科学の研究対象(たとえば、お金、法律、人権、国家、国際関係、裁判、選挙、権力、家族)世界に人間が複数いてこそ発生するし研究に意味が出てくる(人間1名だけの世界ではナンセンス)
人種差別や男女差別といった差別は人が他人に向ける意識や行為なので社会科学っぽい分野ですが(差別は人間が1名では発生しない)、差別は文化や宗教とも結びついていますから人文科学として研究することもできます。
自然科学と人文科学は世界に人間が1人しかいなくても研究する価値は一応あります。
それは1人で生きていく中で今後の天気を研究するとか、自分1人が信じている宗教・神を研究するといった具合。
しかし、人間が複数いないと研究する社会的事象が生まれませんから、社会科学は研究する意味もありません。
たとえば、お金は他人と売買する際に使う記号みたいなモノですから、もし世界に人間が1人しかいなかったらお金に存在価値はありません。
人権は人として保障されるべき権利(何か人為的な脅威から保護される権利)ですから、人間が1人しかいない世界では意味をなしません。
野生動物相手に自分の権利を主張しても通じないでしょうし。
こういった想定は極端ですが、自然科学や形式科学も含めた各種の学問は極端な想定をすると本質が見えてくることがよくあります。
自然科学とは?【意味と考え方を解説】
自然科学の代表的な分野
- 物理学
- 化学
- 生物学
- 地学
自然科学の中でも人間への実用を重視(応用科学とも呼ばれる)
- 医学
- 農学
- 工学
- 薬学
応用科学は人間にとって実用的で安定した需要があり、身につけるのが難しいうえに費用がかかるため就職にも強い傾向があります。
自然科学とは自然界の法則・ルールや自然に発生したモノについて観測や実験といった形で研究する分野を意味します。
自然に発生したモノとは「人間がつくり出してはいないモノ(人間がつくり出せないモノ)」と言い換えることもできます。
人間がつくり出していないモノとは、物体運動、重力、生命体、植物、化学物質、熱、水、土、地球、宇宙、気象など。
たとえばプラスチックは人間が人工的につくり出した化学物質ですが、その原料である原油は人間がつくり出したモノではありません。
そういった現象やモノは人間が絶滅したとしても存在し続けます。
自然科学は人間が存在しないとしても通用する現象や法則をもとめるのです。
あと数十億年もの年月が経過すると、地球は太陽の膨張に巻き込まれるように地球全体が死に絶えます。
その前の時点で地球に人文系の遺産が残っていたとしても、太陽の膨張に巻き込まれるのはどうしようもありません(太陽系外に人文遺産を送るのもほぼ不可能)。
でも、自然事象はそのまま自然界のルールに沿って永続するだけ。太陽系外の惑星でも自然界のルールは同じでしょう。自然の力はすごすぎますね。
自然は人工的につくり出せるのか
ちなみに電気や放射線は自然界にも存在するとともに、人間が強度の電気や放射線を人工的につくり出すこともできます。
具体的にはコイルの中で磁石を回すと電気ができますが、これは人間が自然界の物理法則を利用したところに生まれるのであって人間がゼロ(無)からつくり出しているとはいえません。
そう考えると工学的な機械は人間にとって物理法則を使いやすいように応用した具現物ともいえます。
それはたとえばパワーショベルは「てこの原理」「鉄鉱石」「原油」といった自然を強力な形に変換して人間が利用するモノだということ。
一般に元素は自然界にも存在しますが、一部の元素は自然界にはごくわずかしか存在しなかったり不安定であるため、人間が自然元素をもとに人工的に合成するものもあります。
科学の基礎と応用
また医学や生物学の対象である生命および生体は、人間がゼロ(無)からつくり出して生命を吹き込めるモノではないので自然の範囲に入ります。
あくまで自然界の摂理(法則)を探究・利用するのが自然科学の基本です。
既存の植物や動物について人間が人工的に交配を繰り返して新種をつくることはその典型。
このあたりの自然と人工の違いは哲学的に探究しても面白そうな感じもします。
なお、たとえば単に人体の仕組みを研究するだけなら学問としてありふれていますが、クローン人間のように人間が人間をつくり出す研究となると危険視されます。
車のパーツ取りのように臓器を都合よく提供するだけの人間が生み出されるなどクローン人間の人権は危ういからです。
自然についてありのままの仕組みや性質を探るような研究と、何か新しいモノを生み出す研究とでは重みが違うといえます。
自然の純度
辞書によると自然の意味は「人間による手が加わっていない~」とあります。
これに関して一般に自然界の水や水道水にはさまざまな不純物(塩類、ガス、微粒子、微生物の残骸)が少し含まれています。
薬局には精製水といって純度の高い水(純水)も売っているように、人工的な措置を経ないと純水はつくり出せないのです。
人間による自然科学の考察対象としての水は基本的には純水ですが、自然界の水には不純物が混じっているという点はちょっと矛盾しているでしょう。
不純物の混じった自然界の水を的確に分析するには、水に含まれる物質を純水、ミネラル、ガス、微粒子、微生物などに分け、それぞれを純粋なレベルで知ってから分析するほうが学問の流れとして適当なのかもしれません。
人文科学の意味と考え方
次は人文科学について。
人文科学の代表的な分野
- 哲学
- 文学
- 言語学
- 文化学
- 芸術学
- 歴史学
- 心理学
- 宗教学
- 図書館学
- 人文地理学
人文科学とは人間の内面(言語、思想、芸術感覚)と、そういった内面がつくり出したモノを研究する分野を意味します。
たとえば人間には「美しい」と感じる表現があって、それをもとに作品をつくり、それを後世の人々が評価することは文学や芸術学の典型。
人間の内面がつくり出したモノとは小説や美術品のような有形のモノだけでなく口頭伝承や哲学など無形のモノも含みます。
※哲学とは真理、理性、認識、存在、時間などについて根本的なところを探究すること。
※言語学について幼児が母国語を習得するメカニズムは完全には解明されていません。有力な仮説はありますけどね。
文化や言語にも科学的な法則性がある
- 江戸時代における元禄文化と化政文化の違い生み出した層や場所、作風に違いがある
- SVO型の言語か、SOV型の言語か言語構造はほかにも型があるが双璧はSVOとSOV
- 日本人の心理は内向き志向が高め日本人の心理は日本の地理や言語、民族構成と関係あるっぽい
人文科学は人の内面やそこから生まれた思想・言語・作品を分類することがまず基本としてあります。
そうすると、いくつかの例外もあるとはいえ、たとえば「日本の文化、言語、心理は内向きな傾向がある」などと導くことができます。
どこからどこまでがフィクション?
人間の内面は曖昧であり、かなりの想像力と創造力がありますから、人文科学の産物はフィクションっぽい部分が結構あります。
宗教学の研究対象である神は、もしかしたら人間の思考がつくり出した産物なのかもしれません。
自然科学の産物は人間が再現性のある自然法則を利用した産物という感じですが、人文科学の産物は人間がゼロに近いところからつくり出したという感じがします。
自然科学や形式科学には人文っぽい面もある
たとえば一般に音楽学といえば人文科学の領域ですが、音響学といって音の物理的性質、環境や生物に対する音の影響を研究する学問だと自然科学系の領域になります。
さらに時間論は、数字・数学のような人間が決めた記号だという点では形式科学、人間の理性や感覚に依拠するという点では哲学、量に関する分野という点では物理学に属します。
建築学は工学系の学問ですが、建築物には人間の美意識や風土・文化への対応も込められているように人文っぽいところもあります。
優れた工業デザインも外観が美しいように人文っぽい要素も含んでいます。
自然科学や数学では「○○の法則や▲▲の定理って美しい!」「黄金比やフィボナッチって自然界でも現れている!」と感動することがあります。こういうのって人間による一種の芸術感覚に近いのかもしれません。
基本的に自然は意志をもちませんが、人間がプログラムした高度な人工知能は疑似的な意志をもっているかのように見えます。
とくにフィクションだと『鉄腕アトム』『ドラえもん』の擬人性は有名。
高度に進化しすぎた人工知能は、いつの日か『ターミネーター』『火の鳥 未来編』に出てきた人工知能のように人間に牙をむいてきそうな感じもします。
500系新幹線は外観は素晴らしいですが、内部は人間にとって圧迫感があったり、JR東海の合理化方針からはズレていたため16両⇒8両編成にされてJR西日本の各停専業にまわされるなど悲運の鉄道車両でもありました。
社会科学の意味と考え方
次は社会科学について。社会科学は人文科学と比べると本質が見えてきますよ。
社会科学の代表的な分野
- 法学
- 政治学
- 行政学(政治学系)
- 経済学
- 経営学(商学)
- 社会学
社会科学とは、人間と人間の関係から生み出されたモノを研究する分野を意味します。
社会とは人間と人間の関係から生み出された領域のこと。
法学と政治学と経済学が社会科学の三本柱
- 法学人と人の強制的なルール(=法)の研究
- 経済学人と人によるモノの生産や交換などの研究
- 政治学人と人の権力関係の研究(権力は人が他人にふるうモノ)
人と人の間には強制的なルールがないと人間関係や秩序は上手くいかないため、社会には法が存在します。
ということは、もし世界に人間が一人しか人間が存在しなかったら法が存在する意味などないのです。
法学基礎:大陸合理論とイギリス経験論
たとえば、人間と人間が対立すると裁判に発展することがあります。
裁判にて重要な判決が下されると、以降の同じような裁判では同じような判決が下されやすいです。
同じような罪をやらかしたのに人によって刑罰が大きく違うと不公平だからです(少しの違いはある)。人間は他人との関係で不公平だと不満を主張しやすい生き物ともいえます。
このように次の裁判を多少なり拘束するような先例的な判決を「判例」といいます。判例の中でもとくに拘束力の強いものは「判例法」と呼ばれます。
判例法は経験の積み重ねであるため、形成されるのは遅いという特徴があります。
伝統的に英米は判例法が強めの地域として知られています。もともとイギリスには経験を重視する哲学があり、それは新大陸アメリカにも伝わったからです。
これに対して、議員が法案をつくって議会で可決すれば新たな法律を割と早くつくることができます。このような法を「制定法」といいます。
制定法の策定過程では官僚や学者など頭のいいエリートが理屈っぽくつくる場合が多いです。
ヨーロッパの大陸側(フランス、ドイツ、イタリア、ギリシャ)では大陸合理論といって理屈っぽい哲学と法学者が強かったため、制定法の流れが強め。
ちなみに日本は欧米に追いつくべく幕末~明治時代にかけて欧米の学者を招いて急速な近代化を図ったため英米型と大陸型の両方を取り入れましたが、現代の日本ではどちらかというと大陸型が強いです。
急速な発展には経験型の法より理論型の法のほうが適しているからです。
大陸合理論とイギリス経験論は哲学の二大潮流となっています。
法には実効性をもたせる仕組みも必要
法は条文さえ美しく整えればいいわけではなく、人間に法を守らせるだけの実効性も必要。
具体的には、軍隊、警察、裁判、刑罰といった恐怖・共通権力は人間に法を守らせるための公的な仕組みです。
もし軍隊や警察がなかったら、その国を武力で強制的にひっくり返そうとする勢力が国内・国外に出現しますからね。
武力で国がひっくり返されたら、それまでの政権で築かれた法は効力を失うなど無秩序状態になりますから、各国の法では外国と共謀して国をひっくり返すことは(=外患誘致)法的には最大級の悪事と見なされています。
「軍隊=侵略装置」としか見ていない人もいますが、そういう見方は偏っています(ある一面では正しいが…)。
たとえば普段は緊張感なく車を運転している人でも、自分の真後ろにパトカーが来たら緊張するでしょう。人はそういう恐怖・共通権力があってこそ法を守れるのです。
よくないことかもしれませんが、無視や村八分なんてのも、ある集団・地域で人間にルールを守らせるための非公式な方法です。
経済学基礎:人間の欲望をもとに広がる
次は経済学の初歩について。
たとえば原始人と原始人が出会うと「オレの食料とあなたの毛皮を交換しないか」という発想が出てきます。
これが経済学にいう物々交換。お金を利用した売買は物々交換の発展型です。
いつの時代も人間には欲望がありますから、お金を稼ぐためにモノを生産したり、自分の効用(満足度)や環境を改善するために他人とモノを交換します。
経済学は人間の行動に法則性を見出す
たとえばコーラが好きな人にとっては1杯目より2杯目、2杯目より3杯目のほうが効用は低いです。
つまり、人間が消費するモノは最初の1単位目が最も効用が高くて次第に効用は減っていくのです。これを経済学では「限界効用逓減の法則(げんかいこうようていげんのほうそく)」といいます。
限界効用逓減の法則は普遍的に通用しますし、飲食物以外の分野でもあてはまる場合があります。
人間は単体(1人の人間)としては法則性がつかみにくいですが、諸国の多数の人間にも同じ現象が確認できれば法則として確立するなど人間性の探究は科学っぽくなるのです。
これが社会科学の典型。
政治学基礎:自然と社会とでは強さの基準が違う
『HUNTER×HUNTER』という有名な漫画には次のようなセリフがあります。
「人間の世界ではよくみられる現象ですね 知も才もない無能者が血の繋がりやコネクションのみで不相応の地位に即くこと……」
引用:冨樫義博『HUNTER×HUNTER』23巻、集英社 2006
このセリフは獣と殺人アリと人間の遺伝子を受け継いだ凶悪な合成生物が、ある貧しい国の無能な独裁者(醜い人間)を批評したものです。
基本的に自然界の動物は弱肉強食・適者生存の世界ですから、凶悪な合成生物から見て人間の世界(=社会)では無能な人間が一国の独裁者になって威張っていることは理不尽に見えました。
しかし、人間は社会的な動物ですからコネやカネも出世に関わってきます。というか企業や政党では有能な人が出世するとは限らず、血筋だけで成り上がる人もいます。
これは日本や北朝鮮などを見ても明らか。アメリカみたいな実力主義が強い国でもコネやカネは重要です。
日本の漫画界は実力主義が強いですが(漫画は面白いことこそ重要)、二科展みたいなお上品ぶっている芸術分野はコネ要素が強くて有名。
こういった社会性、すなわち人と人の権力関係みたいなドロドロしたところを探るのが政治学です。
政治学には選挙で勝つための戦略を数理的に分析・立案する分野もありますけどね。
財界では「お金」が最重要の指標になりますが、政界では政治家個人として当選・出世するための人望、演説のうまさなども重要。
金権選挙にならないよう1回の選挙で使える費用には上限がありますし、選挙で買収の類は犯罪になりますからね。
政治家の知識は法や経済の知識も必要なように、政治学の世界を突き詰めるなら広範囲の知識が必要です。
社会学には具体的な体系性が欠けている
たとえば経済学や法学はどんな大学でも基本レベルの講義内容は同じです。経済学や法学は具体的な体系性をもっているのです。
それとは対照的に社会学は具体的な体系性が欠けています。というか社会学の意味をきちんと定義することも難しいです。
社会学に関しては、法学における法曹のような実利的な国家資格もありません。
まあ社会学の中でもマックスウェーバーやデュルケームなどは重要なのですが、社会学は体系的な専門性が欠けていることには注意しましょう。
社会学は範囲が広すぎるだけあって、社会学者はさまざまな話題が出てくるテレビ番組に採用されやすいでしょう。
たとえば法社会学なんてのもありますが、社会学者は法律の専門家ではないため法律についてコメントを出すと「素人っぽい」と批判されてしまうのです。
人文や社会における自然と社会
たとえば人口統計では出生数と死者数の差は自然増減、引っ越しのようにその地域の転入数と転出数の差は社会増減と呼ばれます。
これは自然科学と社会科学の違いに近いように見えますが、政治的・経済的な政策によって人口の自然増を達成することも可能。
こういう概念は言語や国家にもあります。
- 自然言語英語や日本語のように人々の長年の営みの中で自然に形成された言語(特定の発明者はいない)
- 人工言語プログラミング言語やエスペラント語のように、「この語はこういう意味と文法に定める」と急進的に創造した言語(特定の発明者がいるなど形式科学っぽい分野)
自然言語も一応は人為的なのですが、人工言語ほどガチガチに意味・文法・発音が定まっていないので方言や俗語も豊かに発展します。
- 自然法自然の本性にもとづいて場所や時代を問わず成立する理念的な法
- 実定法各時代の各国の人間が人為的に定めた法
自然法は法を哲学的に考えるときに出てくると学術的な概念であり、普通の実務で使うような法は基本的にどれも実定法です。
- 市場価格(自然発生的で柔軟性がある価格)みんなが自由に売買したときの均衡的な価格
- 公定価格(人工的で硬直感が強い価格)政府によって公的に定められた価格
日本の最低賃金や医療用医薬品の価格は「公定」っぽいです。
市場価格も公定価格も結局は人為的な現象ですが、公定価格は特定の数少ない人間が一方的に決めているという点で人工感がより強いといえます。
- 自然国家日本のように昔からその土地に住んでいた人たちが多数者として自然の成り行きでつくった国家
- 人工国家アメリカやイスラエルのように遠方からの移民が半ば強引につくりあげた国家
人工国家は先住民を暴力的に追い出すなど半ば強引につくったため、現代でもその歴史をめぐって火種になっていることがよくあります(地域によっては先住民の概念も怪しかったりする)。
日本は昔から島国なので国境が比較的わかりやすいのですが(琉球と蝦夷の問題はあるが)、大陸諸国の国境は昔の文明水準だとあいまいであり戦争も多いものでした。
その過程では混血も進みましたから、たとえば「古代ギリシャ人の末裔=現代のギリシャ人」とは言えないところがあります。
ちなみに中国は自然国家的な見地からすると中国本土の漢民族だけで中国を構成すべきなのですが、実際の中国は台湾やチベットなども強引につなぎとめています。体制側の中国人は、中国が古代では超大国だったことを誇りに思う一方で、近世~冷戦終結あたりまでは欧米ほど強くなくなった歴史を苦々しく思っているなどプライドにこだわっているのです。
ロシアもそんな感じの連邦国家です。
その意味では現代の中国やロシアは人工国家としての面も多分に含んでいます。
- 自然都市東京や大阪の下町地区のように地元民が自由に発達させてきた街(曲がりくねった狭い道と密集した建物を特色とする)
- 計画都市ブラジリアやワシントンD.C.のように政府主導で計画的に区画して急速に形成した都市(まっすぐな広い道と政治的に重要なデカい建築物を特色とする)
社会科学、次に応用科学は規範性が強い
- 公転周期、自転、重力、○○と△△を混ぜると■■という化合物ができあがる人間にとってどうにもならない科学法則
- 他人の物を盗んだ人を処罰すべき、経済成長より人々への分配を優先すべき、原発を稼働させるべき、人間は長生きすべき、居住する建物は美しいほうがいい、ゲームは面白くプログラミングすべき人間による価値観や規範(~べき)が現れている
物理学や地学は人間にとってどうにもならない科学法則性が強い一方で、法学や経済学などは規範性が強いです。
応用科学は基礎科学に比べると規範性が強い傾向があります。
社会科学と自然科学:親子観の違い
生物学における親子とは「ある生物を産んだ側が親、その生物から産まれた側が子」という自然発生的な関係を意味します。
しかし、多くの国の法律では親子の条件に、そういう生物学的条件は必須ではありません。養子制度はその典型。人間はもっと自由に親子関係を築けるのです。
たとえばA父とC子は法律的には普通の親子だとしても、実際にはC子はB母が別の男性Dと浮気してつくった子だとすると、生物学的にはC子はA父の子ではありません。
社会科学と人文科学の違い:心理学の例
- 人文科学の特徴言語、思想、芸術感覚など人間の内面にもとづく分野。感覚的かつ文化的。優れた産物は次世代へと継承されやすい。
- 社会科学の特徴法、経済、政治など人と人の関係にもとづく分野。自由と公平性がもとめられやすい。実際に社会を動かしている要素が多い。
たとえば心理学は人間の心理という内的現象を研究する分野。基本的に心理学は人文科学に属します(医療には精神科もあるように心理学は自然科学っぽくもある)。
これに対して社会科学は法律、経済活動、国家など人間と人間の関係から生まれた外的現象を研究します。
たとえば「日本国憲法をつくる際は政治家の〇〇という心理が影響していた」などと内面を分析することもできますが、法学といえば妥当な条文解釈や判例を探ることが基本です。
条文や判例はさまざまな人間にとって共通性と外物性と強制性があり、実際に社会を動かしているところがあります。
社会科学と人文科学の違い:社会科学は「自由」がとても重要
法学、経済学、政治学は人と人の関係から成立する学問である以上「自由」「自由権」という概念がすごく重要です。
この自由は、「他人への批評はどのくらい言ってもいい?(言い方によっては違法)」「経済活動はどのくらい自由?(たとえば賃金は最低ラインがある)」「政治家の行動はどのくらいの自由が許されるか」などさまざまな論争があります。
北朝鮮のような独裁国では一般人の自由権が大きく欠けていますが、先進国では自由という自浄作用の試行錯誤によって問題を解決していくことが基本線にあります。
もし法的に問題のある人がいたら適切に批判する、商品を生産しすぎたら自主的に在庫調整する、選挙で有権者は自由に投票先を選ぶなど、自由は人間が他人を正すのにとても重要です。
人文科学や自然科学の自由は政府や宗教などに縛られず学問を自由に研究・発表するという意味で使われやすいですが、社会科学の自由はそういう学問の自由に加えて、他人との関係でどのくらいの自由が許されるのかというバランス論としても使われやすいです。
ちなみにパスツールという細菌学者は「科学に国境はないが科学者には祖国がある」という言葉を残したことでも有名。「科学は普遍的に通用するが、科学者は祖国発展のために生きる」という解釈だと私は考えています。
参考:先進国の法は「自由」を基調とする
- 人身の自由(奴隷制度の禁止、拷問の禁止)
- 罪刑法定主義人間を罰するには事前に定められた法律によらなければならないこと(それに引っかからなければ自由に行動できる)
- 普通選挙
- 思想や信教の自由
- 集会や表現の自由
- 職業選択の自由
- 移動や居住の自由
- 契約自由の原則
- 私有財産の保障
先進国の法体系は上記のような自由権を重視します。この背景としては欧米では市民革命を経て自由権が成立したことが大きいです。
現代の途上国でも自由は多少規定されているとしても実質的には強い規制・制約が伴っている場合が多いです。
重要:人間を動かす要素
- 生物的にはカロリー、血液、ホルモン、外的な化学物質の摂取、生物としての本能(危機回避や生殖)
- 人文的には理性、理想、伝統、経験、倫理、情熱、信仰心
- 経済的にはインセンティブ(損得勘定)、欲望(効用改善)、信用(とくに金融面)
- 法的には法による規制や義務、人は刑罰を避けたがること、応報、贖罪(しょくざいとは罪をつぐなうこと)
- 政治的には権力的な命令、権威、正義、ルサンチマン(強者への憎悪)
- そのほか社会的には恥・世間体、同胞意識、同調圧力(周りが○○なら私も○○)、個性(周りとは違う自分でありたい)
人間を動かす要素について生物的には物質や生存系の要素、人文的には人間の内面性、社会科学面では他者との関係性が強いといえます。
社会科学の連関
たとえばアフリカ大陸は貧しい国が多いですが、経済が普通水準くらいの国も少しあります。
政治の汚職が相対的に少なくて、社会の自由度が高くて、教育水準もマシなことが原因だといわれています。
つまり、法と政治と経済と教育は深い関係があるのです。
こういうところを探るのは面白いですよ。
アフリカは内陸の砂漠地域は厳しいとしても天然資源に恵まれている地域はまだ浮上がありそう。
無限と有限:自然は無限?社会は有限?
- 宇宙は無限、あるいは宇宙は膨張しているという説が割と有力(宇宙が有限だとしても人知の範囲では無限に感じられる)
- 太陽の寿命は約100億年といわれているように太陽は人間から見ると無限ともいえる寿命の長さであり、太陽は地球を照らし続ける
- 地球上ではどこかしら風が吹き続ける
- 地球は人類が滅んだ後も何らかの生命体ともに存続し、やがて太陽の膨張に飲み込まれる
- 物体は外部の力がなければ静止または等速度運動を続ける
自然の根本的なルールは無限あるいは、かなりの長さがあります。自然を宇宙ベースで考えるとそういう長さになるのでしょう。
しかし、社会科学にこういう無限性・永続性はあまりありません。
たとえば憲法は「不磨の大典」といってあまり頻繁に変えるべきではないとされていますが、それでも時代に合わせて変えるべきところもあります。
経済学も地球の資源が有限である中での効率的な経済成長や資源分配をめざすように無限や永続性みたいな概念は希薄です。
「一神教の神は絶対であり永続的」と主張する人がいるかもしれませんが、神は人間の思考がつくりだした人間の思考の中でしか存在しないモノだとしたら、人類滅亡とともに神の概念も消え去るでしょう。
神について存在も不存在も証明できませんが、神について理性的に考察できる主体は人間だけ。
実験観の違い:失敗の回復は難しいか否か
一般に科学は以下のような流れをたどる場合が多いです。
- 人間が何らかの事象に問題意識や好奇心をもつ
- 仮説をもつ
- 仮説にもとづき観察したり検証する
- 結果について考察する
- 公表して周りの批評を受ける
- 何か条件や環境を変えて再び検証に挑むなど試行錯誤をする
これに関して、一部の人間が忌み嫌う社会的な事象として「国の借金」があります。
確かに「国の借金」についてはさまざまな論争があります。
ここで重要なのは、国の借金が具体的にどこまで膨らんでも大丈夫なのかよくわからないし、社会実験しにくいということ。
国の借金について大失敗すると、そう簡単に回復できませんし、害を受けた国民は怒りますから政府は大胆すぎる政策を実行しにくいのです。
外国の例が参考になる場合もありますが、あくまで「参考」であって日本にもあてはまるとは限りません。
自治体レベルでは多少の社会実験はできるとしても、一学生レベルでの社会実験はなかなか厳しいです(大学と自治体が提携しての社会実験は可能)。
もし日本で自然科学系の実験に成功したら外国でも条件を同じように整えれば再現できます。また自然科学系の実験は原発のような大規模なものでなければ失敗したとしても「はい残念」で終わり、リセットしてチャレンジできます。
しかし、社会実験はそう簡単には行きません。
このように社会科学と自然科学とでは実験観の違いが大きいです。
自然科学と社会科学の違い:真実へのバランス
社会科学と自然科学の間で決定的に違うのは真実・真理の解明に対する姿勢です。
そもそも自然科学は自然について真理を解明することを究極目標とします。宇宙の起源の解明なんていうのは宇宙専門家でなくても興味があります。
しかし、社会科学においては真実の解明をめざすとは限らず、それよりもバランスのよさをめざしたりします。
その典型は世界各国の政府が父子間のDNA鑑定を義務付けないことです。
そもそも父親は、配偶者である妻が浮気してつくった子どもを自分の子どもとして育てたくないはずです。
しかし、政府がそれを助けるべく父子間のDNA鑑定を義務付けてしまうと、放っておけば平穏だったはずの親子の仲を切り裂き、それは大きなトラブルへとしてしまいます。
そのため政府が父子間のDNA鑑定を義務付けるのは無理があるのです。
酒類に関しても人間にとって最も健康的なのはまったく飲まないことですが、禁酒法のごとく全面的に禁止すると闇経済が盛り上がるため、政府は合法化して酒税をとり、その枠組みの中で健康指導するのが基本です。
このように社会に真実をもとめず、各人の利害バランスを調整する考え方は日本だけでなく世界中で通用します。
社会の真実は妥協的
社会の争いごとや事件・歴史に関して最も望ましいのは真実を公正に解明すること。
しかし、事件の物証はどんどん風化していきますし(そもそも証拠が残っていない場合あり)、人々の記憶は薄れていきます。
そうすると、真実を公正に解明することはできなくなり、時効にしたり、適当なところで折り合いをつけるしかなくなってきます。
参考:学問の究極目標
- 自然科学(とくに基礎科学)真理の解明(真理解明の過程で自然や人間の限界も見えつつある)
- 自然科学(とくに応用科学)人間や自然環境にとってプラスになるモノの発明(寿命や安全性の向上、環境負荷低減、人間が楽になる機械の発明など)
- 社会科学真実の解明、各人の利害バランスの調整、より多くの人々の幸福につながる体制の構築
- 人文科学真実の解明、先人たちの知恵や作品を評価し現代に役立てる
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道徳とは?わかりやすく解説
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特定の一神教を信仰する人間は、そうではない人に比べて主観的な幸福度が高いという調査・論文があります。
その調査・論文が正しいとすれば、この世の真実ではないかもしれない神・神話を信じるほうが人間の幸福度は高いということ。
日本人の主観的な幸福感が高くないのも、特定の一神教を信仰しないからかも?
真実というのは大きなジレンマですね。
形式科学の真理論争:発見か発明か
たとえば数学の素数は古代のエジプトやギリシャで生まれました。
人間が素数という概念を生み出し、その無限性が証明されると、その後の素数研究はより大きな素数を見つけたり、素数の法則性を探るなど発見的な色彩が高まります。
その意味では最初に素数を確立した人は「発明」で、その後の素数研究は「発見」といえるわけです。
でも、よく考えてみると最初に素数を確立した人も、ある意味では「発見」といえます。
数学はきわめて整合性の高い宇宙みたいな広い領域ですから、数学の真理・定理はだれかが発明する以前に自然に潜在しているとすれば、だれかが発明あるいは証明した偉業は「発見」ともいえるのです。
このあたりは「卵が先か、ニワトリが先か」みたいな感じで正解がないでしょう。
科学と真実と人間と、突き詰めること
- 人間はなぜ生きるのか?人文科学で問われやすい(人間の内面の探究)
- 人間は善か悪か?(利己的か利他的か)人文科学や社会科学で問われやすい
- 善とは何か、悪とは何か?(世の中には必要悪もある)社会科学、人文科学、応用科学で問われやすい
- より多くの人間が幸せになれる体制とはどんな形か?社会科学で問われやすい
- 科学は普遍的だが各国の文化や社会は個性的でもいい?社会科学や人文科学で問われやすい
- 個人の人権が大事か、全体の秩序が大事か社会科学で問われやすい人間と新陳代謝の関係人文科学(古い思想・文化から新しい思想・文化)、社会科学(法改正、古い産業から新しい産業、政権交代)、自然科学(人体の新陳代謝)、応用科学(新たな発明)
- 理想か現実か社会科学で問われやすい(軍事、社会保障、刑罰など)
- 人間にはどのくらいの差異があると見るべきか?自然科学や法学で問われやすい(身体構造、制限行為能力者、年齢、性格、好み、大人と子ども、日本人と外国人、混血)
- 男と女はどう違うかいろんな科学で問われる(学問の中身より向き不向きとして問われたりもする)
- 人間はどの程度、合理的に動けるのか社会科学や自然科学で問われやすい
- 人間の能力の限界はどこなのか?自然科学で問われやすい(自然科学は人間の能力をアシストできる)
- 人間と自然の最良の関係とは?自然科学で問われやすい
↑上記に関して、世の中は何もかも二律背反とは限らない
たとえば人間が投資を行う主目的は、自分がお金を儲けようとするため。
その意味では投資は利己的な行為です。
しかし、投資で大きく儲けた人は、恵まれない人への寄付に積極的になるなど、むしろ利他的になったりします。
これはたとえばアメリカではバフェットという超大物投資家が、日本では前澤さんやテスタさんが寄付を積極的に行っていることにも現れています。
それから治安や平和というような全体的な秩序の実現を重視すると、結果的に個人の人権が守られやすい傾向もあるでしょう。
個人の人権を重視しすぎて移民を大量に入れて秩序が大きく乱れたというパターンもありますけどね。
自然科学関連でも科学の発展は地球環境にとってとにかくマイナスだと見る人がいますが、むしろ科学の発展が地球環境への負荷を下げているところもあります。
人間も社会も科学も複雑ですから、一見すると悪っぽいのに意外と善だったり、その逆もあったりするなど物事は単純な二者択一とは限りません。
世の中には両立しづらいことがある
昔から日本のアニメ業界は低賃金で有名です。
それならば日本政府がアニメ業界を手厚く支援するという手も考えられます。
しかし、日本政府が手厚く支援すると、アニメ業界はコンプライアンス重視になって作品がつまらなくなる可能性が高いです。
確かにアニメ業界の低賃金は問題なのですが、かといって政府が強く介入することにも問題があります。
つまり、世の中にはなんとも両立しづらい社会構造もあるのです。
人間の不安定感:社会科学や人文科学は科学ではない?
世の中には社会科学や人文科学もありますが、「科学」と聞くとまず想起しやすいのは自然科学でしょう。
ここには人間の不安定感が大きく関わっています。
自然科学の物質は同じ物質で劣化していないのなら100年前のモノでも現代のモノでも性質は変わりません。
自然科学の物体運動についても人間が絶滅したとしても半永久的に成立し続けます。
すなわち自然科学の法則・実験は普遍性が強く再現しやすいのです。
しかし、人間の思考様式は現代人と古人、日本人とアメリカ人とでは違ったりしますよね。同じ日本人でも現代では思考が複雑に多様化しています。
中には似ているパターンもあったり、いつの時代でも変わらない本質もありますが、それでも自然科学で扱う物質よりは安定感が低いです。
そのため人間関係を扱う社会科学、そして人間の内面を扱う人文科学では再現性および法則性が自然科学よりは弱いというわけ。
実際、政府の政策はエリートが考え抜いたものや海外で成功したものであっても失敗することはザラにあります。
人間の非合理性を補う科学
それでは自然科学は万能かといえば、そんなことはなく、条件を潔癖なまでに整えた実験室でしか成功しない実験と、実際の現場(医療や建設の現場、工場など)で行う策とではズレがあったりします。
これに関して昔の社会科学は「社会を徹底的に理屈っぽく設計すれば、みんなが幸せになれる」という社会主義・計画経済が盛んでした。
しかし、そういう社会主義が一気に廃れたのは、人間の合理性や理想を優先しすぎて現実の自浄作用は大きく欠けていたことが主因です。
現在の社会科学では人間の非合理性を十分に考慮した研究も進んでいます。
参考:法則の安定感が違う
- 自然科学系の普遍的な法則運動法則、質量保存の法則、ケプラーの法則
- 社会科学系の普遍的な法則寡頭制の鉄則(組織の支配者は少数)
- 人文科学系の傾向グリムの法則、ジャネの法則
日本の京都には「鴨川等間隔の原則」といって鴨川のほとりに座るカップルは等間隔という法則があります。
しかし、こんな法則が通用するのは周りの空気を読みたがる日本人だけかもしません。
要するに社会科学や人文科学の法則は、自然科学の法則に比べると安定感が低いのです。
人文科学の中でも言語学と心理学は法則がいろいろあります。
人文的には文明が進むほど多神教から一神教へのシフトが進むなんていう傾向もありますが、日本は文明国でありながらも多神教の国であるように「法則」というより「傾向」という感じです。
理系も文系を、文系も理系を学ぼう
それから、たとえば地学の分野では地震の法則・発生を予知できたら人間にとってかなりの実利があります。
しかし、地震の正確な予知は今のところ不可能。
それなら、工学的に建物を丈夫にするとか、行政や住民が減災に向けて準備しておくほうが現実的です。
減災は経済コストも考えなければならない以上、地震を研究している人が経済学を学ぶことは大きな意義があります。
理系も文系を、文系も理系を学んだ方がいいパターンは他にもたくさんありますので専門外の領域についても教養レベルで学んでみてはいかがでしょうか。
大学での各学問は根本を探究する
自然科学は小中学校の理科を本格化させた分野、社会科学は小中学校の公民を本格化させた分野、人文科学は小中学校の道徳・語学・芸術を本格化させた分野ともいえます。
- この世の根本に迫る
- 真理、真実とは何か
- 小中高で習った内容を改める
- 人間とは何か
- 科学の限界を知る
- 正答が見つからないことを探究する
- 社会に政策提言をする
とくに哲学は人文だけでなく自然科学や社会科学にもおよぶ根本を突き詰める学問です。
学問を使って何かを創造したいのなら、まずは教科書に載っているような原理や先人たちの成果を学ぶべき。これは大学入学前や、大学1~2年生でやることです。
筆者の場合はなんとなく社会の根本に興味があったために社会の根本を広く学べそうな学部へ進学しましたが、これは人によって違うものです。
もしどの学問を選ぶべきか迷っている人がいたら「どの分野の根本に興味があるか」を考えてみるといいですよ。
社会科学と人文科学の重要なポイント:個と全体・集合
ここから先は補足的な情報について述べます。
- 社会科学の個経済人(合理的に行動すると仮定した経済モデル)、ミクロ経済、個としての有権者、個人の人権
- 社会科学の全体や集合体国家、国際関係、政党、企業、マクロ経済、治安(秩序)
- 自然科学の個細胞、原子、分子、顕微鏡で見るような世界、身近な物理現象
- 自然科学の全体や集合体宇宙、天気、大気、太陽が地球に影響を及ぼすというような規模の大きな現象
社会科学や自然科学は、個と全体・集合を意識しながら取り組むことが大事です。
たとえば個人の人権ばかりを尊重すると社会全体の秩序が乱れることがありますし、逆に社会全体の秩序ばかりを重視すると個人の人権が抑圧されたりします。
グローバリゼーションに特定の推進者は存在するのか
ときどき「グローバル化に反対」という言葉を聞きます。
それではグローバル化を推進している人がいるかといえば、多くの人はAppleやAmazonといったアメリカ発のグローバルブランドをなんとなく使い、そのほか輸入の資源や食材を消費している程度でしょう。
また、たとえば昨今ではオーストラリアの賃金(日本人でも就きやすい職種)が日本よりも高いため日本から移住が相次いでいるというニュースがありますが、現地オーストラリア人の雇用主は「グローバル化の推進」を考えているわけでなく、ただ現地の市場原理や最低賃金に合わせて求人しているだけでしょう。
たとえば新聞の発行部数急落も同じで、その原因は多くの人がインターネットおよび電子情報を選好するようになっただけのこと。だれか特定の人間が新聞の凋落を仕組んだとかはありません。
ここでは個人個人の力は小さいですが、その小さな個人が集まった社会全体はかなりの力があります。
社会の変化は特定の政治家が推進することもありますが(とくに独裁国ではトップの政治家の力が大きい)、自由主義・民主主義の国家では個々人の小さな力が結集することで変わることのほうが大きいと感じます。
歴史は人間による科学の総体
最後は歴史学の特殊性と進歩史観について。
歴史の中でも芸術作品や思想変遷は人文科学っぽい分野です。
一方、戦争や政争は人と人の関係から発展しているので社会科学っぽい分野です。
法学や経済学を細分化すると法制史学や経済史学という分野もあります。
自然科学の分野でも人間による自然科学の変遷を研究する分野もあります。
要するに歴史は人間による科学の総体なのだということ。
一般に歴史学や考古学は人類が現れた時代以降の人類の痕跡を研究の対象とします。
それ以前の時代(人類がいない時代)の研究は地学や古生物学が主役という感じです。
前者は人文科学・社会科学系で、後者は自然科学系です。
進歩史観への疑念
進歩史観とは、歴史はある最終形態へと進歩していくという見方のこと。
この進歩史観を強くもっている人間は、たとえば「軍備の増強=進歩からの逆行、軍備の縮小=進歩」「解雇規制の緩和=進歩からの逆行、解雇規制の厳格化=進歩」「社会保障の拡大=進歩、社会保障の縮小=進歩からの逆行」という見方をもっています。
たとえば日本の戦国時代は総人口の割に戦乱が多く、現代の日本は総人口の割に戦乱は減りました。その意味では日本は進歩したことになります。
でもね、戦乱が減ったからといって日本はいずれ軍備をゼロにできるかといえば常識的に考えると不可能なはず。
というか、軍事力の性能は戦国時代よりも大きく上がったがゆえに日本は平和になったのかもしれません(ほかにも経済や食糧事情の良化も平和に絡んでいる)。
にもかかわらず、日本の軍事力を本気でゼロにできると考えている勢力がいるのは宗教っぽいです。
つまり、進歩史観を直線的に思い描いて強く有するのは歴史や社会に対する目を曇らせてしまうのです。
自然科学の法則や数学の定理を信用するのはわかりますが、史観みたいな社会の見方は自然科学の法則や数学の定理よりも不安定ですから思い込みすぎるのは危険。
まとめ
今回の自然科学と人文科学と社会科学の分類は「それなりに妥当」という見解であって絶対的な正解ではありません。
数学、地理学、歴史学などは分類が難しいですし、他にも細かいツッコミどころはあります。
何か気になることがあったら、あなた自身でも開拓してみてください。
ちなみにアメリカの大学は学部4年間が教養的で、大学院が専門的な傾向があります。ロースクールやメディカルスクールはその典型。
日本でも教養学部や総合政策学部といった学部に進学すると学部4年間を教養的な内容で埋め尽くすこともできますよ。
筆者は総合政策学部の出身ですから。
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