転職に迷う20代から30代は幸せの要素を分解して検討しよう

人間はなぜ生きるのか、様々な理由を探してみた【人生の意味と目的】

人生という名のレール 生活
スポンサーリンク

人間はなぜ生きるのか

あなたは「人間はなぜ生きるのか」わかりますか。

多くの人が考えてきたこの超難問。

もちろん、答えはなかったり人それぞれでしょうが、考えられるパターンをいくつかあげてまいります。

人生に意味はないと見なすパターン

まずは具体的な理由をつけられないパターンとして「生きるから生きる」があります。

よく登山家が「そこに山があるから山に登るのだ」というように、「生まれたからにはなんとなく生きる」だけということ。

つまり、生きること自体に生きる意味があるというトートロジーみたいなものです。

なんだか動物としての本能が感じられる一方で、消極性も感じられます。

「そこに山があるから山に登るのだ」と最初に発言した人は外国人のようだけど、それは意訳・誤訳らしい。
登山と似たような?感じで「人生は壮大なゲーム・暇つぶし」と考える人もいるね。

消極的な答え

次に、さらなる消極的な答えとして「死が怖いから」があげられます。

現世で生きていることがつらいとしても、死ぬことはそれ以上につらい、あるいは死ぬとすべてが無になってしまうと考えるため生きるということです。

ただ、人生というのは成功者であっても「山あり谷あり」が普通ですから、生きていれば、そのうちよいこともあるというものです。

そう考えた方が幸せに近づくのではないでしょうか。

人生はゲームと違ってコンティニューができない。つまり、1度だけと考えるのが基本。
シューマッハという超有名なF1ドライバーはスキー中に事故に遭ったために、きわめて深刻な障害が残ったらしい。それがなければ大金持ちとして極楽な余生をすごせたはずなのに。人生ってわからないもんだ。
「人生は山あり谷あり」だとすると、悪いときに道を踏み外さないことが重要。

法学的な意味

次に社会科学の本を出版した者としていうと、法学的には人間は幸福を追求するために生きていると見なされます。

それは日本国憲法だと幸福追求権と呼ばれます。何をもって幸福と見なすかは人それぞれです。

しかし、たとえばバイクを乗り回すひと時が幸福だと考える人がいたして、その人が騒音をまき散らしながら好き勝手に乗り回すと、それは平穏な環境が好きな人と対立します。

自分の幸福追求は他人の幸福追求はぶつかることがあるのです。

ですから、政府は多くの人にとって妥当な交通法規をつくったり、交通違反者を取り締まります。

この場合、政府はみんなの幸福の調整装置といえるでしょう。

経済学的な意味

次に経済学的にいうと、人間は高い効用を味わうために生きると見なされます。

高い効用を味わうとは、美味しい物を食べるとか、金儲けに満足して喜ぶとか、趣味に興じている時間が楽しいとか、愛する人といっしょにいる時間が楽しい、といったことです。

これはお金をかけずに実現できる場合もありますが、現代社会では欲望を刺激されることが何かと多いものです。

しかし、現代では幸福の実現には大金が必要な場合もあるため、逆に人間の不自由さがきわだつ解釈かもしれません。

社会人は年収600万円までは年収と幸福度は比例するという統計がある。しかし、それ以降は年収と幸福度は比例するとは言い難い。
毎日の生活が何の不自由もないとすると、相当なぜいたくをしないと満足できない身体になる。しかし、キツイことがそれなりにある人生だと、たまにあるちょっとした幸せが大きく感じられる。晩酌とかそんな感じがする。

人文科学的な意味

さらに人文学的な観点からは、人は何か表現を残すために生きていると解釈できます。

この場合の表現とは、作文、本、詩、写真、動画、絵など著作権性のあるもの全般とお考えください。

現代ではTwitterのつぶやきなんかもそれに類するモノといえます。

黒歴史が残るとアレですが、評価される作品をつくってから死んだら、それは後世の人にも語り継がれるのです。

芸術家の場合、むしろ死後に評価が上がるパターンもよくあります。

特定の作品は残していないとしても、「あいつの生きざまはすごかった」という形で口頭によって伝承されていく場合もあります。

人が死ぬと、その人と親しかった人は死んだ人が残したモノを整理したり生き様を拡散するのです。

百人一首には「滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ」という有名な句があるよ。滝は枯れて音が消えて随分たつけど、滝が流れていたという評判は未だに聞こえるという解釈。人間の名声も同じようなもの。

このとき、あなたが特定の人文作品をつくっていないとしても、あなたが育てた子どもや、あなたが会社で成し遂げてきたことがあなたの表現と解釈することもできます。

ただ、根も葉もないことをいうと、地球はやがて消滅します。太陽の生命は有限であり、地球の生命は太陽と一蓮托生だからです。

地球が消滅したときに人類が残してきた素晴らしい遺産の数々はすべて消えます。

人類が生きた痕跡は何一つ残らないのです。モナリザもツタンカーメンマスクも宇宙のちりとなるのが最終的な運命。

そういった作品を他の天体に持っていけば地球が消滅したとしても大丈夫という見方もありますが、今のところはまず不可能です。

そのため、人間が残すものは人間が生きている時代だけでしか意味がないといえます。

ちなみに日本では書物を出版すると国立国会図書館に1冊は納めることが義務付けられています。そのため、それが稼働している限り、自分の生きた痕跡を書物として残すことができます。

家族や他人に対する責任

さて、そもそも「人間はなぜ生きるのか」なんて問いを考えられるのは最低でも小学生以上の年齢の人のはずです。

小学生でもめったにいないのではないでしょうか。

つまり、子どもたちは日々を無邪気に生きているだけだといえます。

で、あなたに子どもや愛する人がいる場合、あなたが死んでしまうと、無邪気な彼らは大変につらい思いをします。ペットや友人とて似たようなものです。

そのため、あなたには生きる責務があるといえます。

「親が産んで育ててくれたから生きる」「親を悲しませたくないから生きる」と考える人は多いだろうね。これもちょっと消極的な感じがするけど。

人間が家族や友人をつくったりペットを飼うのは、自分が死なないように人生に張り・見張りをもたせるためといえる。人間はそういう孤独感に敏感だとすれば、人間は本質的に孤独だ。

問い自体がぜいたくか

次に歴史的に考えてみます。

というのも、「人間はなぜ生きるか」という問い自体にある種のぜいたく感があるからです。

この点、飢饉や疫病で苦しんだ前近代の人たちの多くはそんな問いを悠長に考える余裕はなく、日々、農業生産に勤しんでいるだけの人が多かったと思います。

実際、文学の内容に自我や人生に悩む傾向が明らかになったのは日本では明治時代以降の話です。

太宰治は富裕層出身だけど人生にかなり悩んでいたみたい。

たぶん、現代でもアフリカの貧しい部族などは自我に悩むだけの余裕や教育水準がない人が多いはずです。

そんな場所や時代で無念のまま死んでいった人が大勢いるとすれば、「人間はなぜ生きるのか」という問いができるほど余裕のある人は、彼らの分まで生きてもよいのではないでしょうか。

自殺率は、先進国>途上国、旧社会主義国>昔から資本主義国、の傾向がある。社会主義国の自殺率が高いのは人間関係がよくも悪くも濃いこと、そして自分が所属するコミュニティから冷たくされたときに絶望しやすいからだといわれる。イジメや解雇はその典型。残念ながら日本の学校や会社は社会主義的だ。
アメリカは雇用が流動的だから、クビになっても切り替えて次に行こうという精神が芽生えやすいと聞いたことがある。
生の意味を問うのは若者が多い

筆者の主観ではありますが、「人間はなぜ生きるのか」という問いを発するのは14歳から18歳くらいまでの多感な時期が多いと思います。

その年代といえば肉体と知能・精神も大きく伸びる、いわゆる思春期です。

その年代は高校受験、高校生活、そして就職あるいは大学生活にさしかかる時期でもありますのでストレスと環境の変化も大きいでしょう。

若者へ言いたい:「人生観は変わる」と

一般に日本の中高は授業やクラスメイトの選択肢に自由が大きく欠けているので、思春期ならびに人生をキツイものだと見なしている人は多いでしょう。

しかし、高卒で就職したり、大学生になるとそういうしがらみからは少し解放されます。

そのとき、ふたたび人生を見つめ直すとまた違った解釈にたどり着けるはずです。

そこでは痛苦もありますが、幸福になるヒントや機会もあふれています。

タイトルとURLをコピーしました